1953年、敦煌文物研究所は安西楡林窟について考察した。41の洞窟に番号をつけ、また洞窟内部についても初歩的な考察をした。第2・第3窟の壁画から玄奘取経図を発見して、第3窟の普賢変中の取経図を模写した。50年代後半、西安の大興善寺の玄奘記念館に贈るために複製を一幅作成し、こうして最も古い玄奘西天取経の芸術の形が観衆の目の前に現れたのである。

 40年来の保護と研究の過程において、楡林窟の第3・第29窟からも、2幅の取経図が見つかった。近年、安西東千仏洞の第2窟からも2幅が見つかっている。こうして、合計6幅の玄奘取経図が発見されたが、どれも独立した画面ではなく、大幅の変相の中に挿入されているものである。

 6幅の取経図は、それも安西境内の西夏時代の洞窟の中に描かれており、内容は大同小異である。ここで、それぞれを紹介しよう。

 一 安西楡林窟第2窟西壁北側、水月観音図右下の角。水辺に近い平地の上に、青年漢人僧がおり、剃髪して、中に大袖のシャツとスカート、上に袈裟を着て、見上げて十指を合わせている。猴行者は猿の顔で髪を結んでおらず、頭に金環を戴き、袖を絞った短い上着と広口袴を身につけ、長靴を履いている。右手は額の前に高くかかげて、景色を見定めようとしており、左手で馬をひいている。師と徒との二人は水の向こうの観音に向かって礼をしており、白馬は頭のみが見えている。水のさざなみや月の色、静かで神秘的な境地の中では、玄奘と猴行者は、この大千世界の中のちっぽけな人物に過ぎない。(図1)

    図1 玄奘取経図 楡林窟第2窟西側北壁《水月観音変》中

 二 楡林窟第3窟西壁門南普賢変の南側に、平地が見出せ、目前には雲海が広がり、仙人たちが遊んでいる。雲海の下には激流が逆巻いて前進を阻んでおり、これは取経する人物に降ってかかった苦境なのである。玄奘は衣と袈裟を身に付け、編み靴を履き、遠く普賢菩薩の背後の仙山楼閣を望んでおり、両手を合わせて敬意を表している。玄奘には後光が射し、体の側には祥雲がたなびいている。悟空は猿の顔で、大きな眼に大きな口、毛髪は多くが立っており、白い小袖と白袴を身につけ、同じく編み靴を履き、師に従って手を合わせており、埃にまみれた行脚僧の様子を表している。猴行者は白馬を引いていて、その馬は大きな蓮華を背負っており、花の中には経典の袋が載っている。そこから光が四方に発しており、インドから持ち帰った657部の仏経を表している。これは明らかに、漢代における「白馬が経を背負う」という故事を真似たものであり、玄奘が西の天竺から経を持ち帰ってきた情景を描写している。(図2)

     図2 玄奘取経図 楡林窟第3窟《普賢変》中

 三 同窟東壁北側十一面千手観音変下部に、青年上限の立像が描かれ、後光が射し、右の肌脱ぎをし、両手を合わせ、敬虔にお祈りをしている。南側には悟空が描かれ、猿の顔で長髪が肩にかかっており、頭に色とりどりの鉢巻を締め、小口のズボンを着て、脚には毛皮のブーツを履き、腰には斜めに経の包みが挟まれている。右手には金環の錫杖を持ち、右肩に担いで一畳の経の包みを下げている。左手は額の前に高く挙げて、両目はまん丸にして前方を見ており、元気を奮い起こしている。ここでは、経を手に入れて持ち帰った喜びを表現しているだけでない。頭の後ろの後光と、配された位置から考えて、彼らは絵師によって観音菩薩に従う神聖な存在に列せられていることが分かる。(図3)

 図3 玄奘取経図 楡林窟第3窟《十一面観音変》中

 四 楡林窟第29窟北壁東側水月観音の下部に付属した画面に、巻物式に枝葉が繁っている大きな樹木が描かれている。北側の絵には一人の俗士が左手に何かを持っており、その形は桃に似ている。右手で樹木を指差し、猴行者と玄奘とが話しているのを振り返っている。猴行者と玄奘とは同じように横向きに描かれ、猴行者は丸い目に大きな口、垂らした髪の毛で、金環を戴き、小口のズボンを身に付け、背中に袋を背負っている。後に続く玄奘は袈裟を着て合掌し、笑いながら話している。玄奘の背後には、空の鞍を着けた白馬が従っている。

 樹木の南側には一人の人物が桃を手に取り、もう一人と逃げようとしていて、二人は体を低くしてひそかに喋っている。更にもう一人の僧がおり、後光が射していて、袈裟を着ており、右手に桃を持って背後に隠し、人に見せないようにしながら、仰向いて菩薩と話している。菩薩は頭に三珠の宝冠を戴き、高い髷に長髪が肩に流れ、中にはシャツとスカート、外には袈裟を身に付けて、両手を合わせて僧の話を聞いている。僧の背後にはもう一体の菩薩がおり、僧の手にある桃を見つめているが、僧はこのことに気づいていない。この趣深い情景は、恐らく玄奘と猴行者が西王母の蟠桃を盗んだ故事であろう。しかし、画面はあまりはっきりとしないため、以後の考察を待ちたい。

 五 東千仏洞第2窟の中心柱を挟む両側の壁に、小道に沿って南北にそれぞれ水月観音が一壁あり、観音の座する前の画面にそれぞれ一組の玄奘取経図がある。

 南壁は、観音が座している珞伽山の前で、玄奘の一行が山肌に寄りかかっている。目の前には激流が逆巻き、水辺には青い宝玉がきらきらと光を発している。不思議な光景である。

 玄奘は大袖の服を身につけ、上着に袈裟を着て、両手を合わせている。悟空は人の顔であるが猿に似ており、大きな口で歯をむき出していて、髪を垂らし、頭には金環を載せ、武士の衣装を着ている。腰は束帯をつけ、小口の袴をはき、編んだ草鞋をはいている。左手は額にかざして遠くを見やり、右手では白馬をひいている。馬は真後ろを向いていて、首を廻して景色を見ており、生気が溢れている。

 北側は、玄奘の正面の画像で、中にスカートを、外に赤い袈裟を着て、礼を表す格好をしている。悟空の顔の部分は欠損しており、武士の短い着物を着て、編み靴を履き、片手で馬をひき、片手で金環の錫杖を持って、頭を上げて見渡している。白馬は乗れるように鞍を乗せていて、立って待っている。これは西へ向かおうとしている場面である。この二幅の取経図の独特な所は、どちらも一組の神霊が雲の中におり、玄奘の前を先導していることである。雲の中の神霊は帝王のような服装で、天冠を戴き、大袖の着物を来て、腰巻は膝まで隠し、雲を履んでおり、手には香炉を持って、頭を上げて前を見ている。側には天女が侍り、後ろには神魔張の大旗があり、地上のお経を手に入れに行く玄奘達一行の前で行っている。これが、大梵天王である。『詩話』には、大梵天王が猴行者に鉢と金環錫杖を賜い、道中で白虎の精に出くわしたとき、猴行者は金環錫杖を、‘頭は天にまで届き脚は地を踏みしめ、手ずから降魔を行う’という夜叉に変え…口から百丈もの火の光を吐き出して白虎の精を降伏させた。大梵天王は玄奘と猴行者に「難所があれば、天官を遠く指差し、天王□声と大声で叫べば、救われるだろう」と言ったが、玄奘一行が女人国の前にたどり着くと、水が流れてきて、洪水になってしまった。法師は悩んだが、猴行者が「天王と一声叫ぶと、洪水は断ち切られ、波は乾き、安んじて通ることができた。」大梵天王の出現は、唐の玄奘がお経を手に入れてきたのと内在的に関係がある。

 この6幅の取経図の共通点は、以下の通りである。

 一、登場人物は玄奘、猴行者と白馬のみである。玄奘は青年高僧として描かれ、中国式の大袖の着物に長いスカート、袈裟を身に着け、完全に漢僧の風貌をしている。同じように旅行の途中に各地に巡礼する情景があるが、多数は西に向かっているところを表現しており、白馬は鞍を空にしたまま従っている。東へ帰ってきて、白馬が経を積んでいるところを描いたものは少ない。猴行者は経を背負っている。6幅の画面は経典を求める17年の苦しい課程を象徴的に表現している。

 二 悟空は猿の顔をしており、絵師の猴行者に対する理解や芸術の修養、表現技術が異なっていたために、造型もそれぞれ違いがある。このために、人に似た猿もある。あるものは猿の姿で、人情味がある。あるものは片手に金環錫杖を持ち、片手は額の前にかざして、前を見定めており、呉承恩の『西遊記』に出てくる孫悟空の芸術形象の風采が、既に西夏の壁画において現れているのである。

 魯迅は『西遊記』を「神魔小説」であり、想像力が豊かで、現実とはかけ離れているとした。しかし、どのような想像も依拠するところはあるもので、現実の歴史に依拠しているものもあれば、想像と幻想的神話に依拠しているものもある。写実的な『大唐西域記』にも、実際には『大慈恩寺三蔵法師伝』という虚構が含まれており、これも玄奘の取経図と『西遊記』に依拠しているのである。

 玄奘取経図における玄奘は、俗姓は陳、名は?、今の河南偃師の人である。13歳で出家し、19歳で受戒し、27歳でインドに赴き学問を修めて経典を持ち帰りたいという志を立てて、陳情を繰り返し、西へ旅立つことを求めたが、朝廷は許しを与えなかった。28歳、貞観元年(627年)、玄奘は「人間の苦しみ」を解くために、「命をも惜しまずに」こっそりと越境することを決意した。まず、単身で長安から河西へと潜入した。涼州都督の李大亮は詔に従って玄奘を長安へ送り返そうとしたが、この時に慧威法師が中から助け、密かに弟子を遣わして玄奘を西へと旅立たせた。瓜州へと潜り込むと、刺史の独孤達は玄奘に同情し、詔に逆らって玄奘を行かせた。涼州の諜文が到着し、「全ての州県においては、厳しく捉えること」という命令が下ったが、州吏の李昌の支持も得て、諜文を破棄し、ひそかに玄奘を玉門関へと送り出した。幾多の艱難辛苦を経て、二年後にやっとインドへ到達した。インドで学問を修め、仏経を書き写しながらインドを周遊し、仏跡を巡礼し、貞観十九年に帰国した。前後の時間は17年で、大量の仏教経典や仏像を携えて帰り、わが国の著名な仏教学者、翻訳家、旅行家、また中国とインドの文化交流の使者となった。これこそが取経図における玄奘の歴史的根拠である。

 取経図における、猴行者はどこから来たのであろうか。猴行者の名前は「中瓦子張家印」の『大唐三蔵法師取経記』と『大唐三蔵法師取経詩話』に初出する。『詩話』における「白い衣の秀才」というのが猴行者で、彼は花果山紫雲洞八万四千の銅頭鉄額の弥猴王であり、彼は玄奘に向かってこういう。「私はあなたがお経を手に入れに行くのを手伝います。ここから百万の道のり、三十六国を経ていくのに、困難に遭うところが多くあります。」こうして玄奘は「猴行者と呼び名を変えた」。この後、多くの詩人が書いたものには、どれも猴行者の名前が見える。

 宋代の劉克荘の『後村居士集』の詩には、以下のようなものがある。

  経を取るのに猴行者に頼り、詩を吟じて鶴阿師を運ぶ

 宋代の張世南の『遊宦紀聞』に、張聖者(張鋤柄)が重光寺で題した詩に次のようなものがある。

  無上の素晴らしい文章であるお経は鮮やか、三蔵法師がインドへ行った

  苦しい状況も猴行が切り抜け、河の上でも馬は進んだ

 『詩話』にはまた、玄奘と猴行者の二首の対話詩がある。

 猴行者の詩:

  百万里の道のりをあちらへ向かい、今大師をお助けしにきた

  一心に真の教えに出会うことを願い、ともに西の鶏脚山へ行く

 玄奘の詩:

  一体どのような因縁があったのか、今果たして大いなる明仙に遭遇した

  前途で妖魔に会うところでは、神通力で仏前に静めて欲しい

 ここから、玄奘と猴行者は解けない縁を結んだのである。6幅の取経図はどれも玄奘と猴行者の二つの主体から成っている。

 猴行者は悟空であり、悟空は唐の玄宗時代の都にある章敬寺の僧侶であった。俗姓は車、名を奉朝といった。天宝十年に張光韜に従って西域に出発し、遠くインドまで赴いたが、病気のために中国へ帰ってくることができず、?陀羅国で出家し、インド、中央アジア、最息諸国を遊行して、「大唐西域記とはかなり異なっている」「艱難辛苦を経験し、体を棄てて命をゆだね、国に報いると誓った」。27歳で出家し、60歳で帰国して、章敬寺で読経の日々を送った。『西遊記』の中の悟空は、まさに玄奘か約40年後の「安西から来た無名の僧、悟空」に、神秘化して想像されてできたものである。悟空が猿の顔になったのは何時頃からかというのは、『詩話』の印刷、著述の年代によって決定される。およそ変文が流行した晩唐五代から、宋にかけて流行した。そして猿の顔の由来については、学者達の諸説が芬芬として、すでに幾十年も討論されてきた。およそ、次の三つの説にまとめることができる。

 一 我が国の民族伝統文化起源説。魯迅が旗揚げ者である。彼は、猴行者の姿は、唐代の李公佑が山の洞窟で発見した『古岳?経』において説かれている淮河の水神、無支祁であるとしている。経の中には大禹が治水を行った際の神怪伝説が収められている。

  淮河の水神、名前は無支祁、言葉を話すことができ、長江や淮河の深浅や湿地の遠近

を見分けることができた。形は猿のようで、短い鼻に高い額、青い体に白い首、金の

眼に雪のように白い牙を持ち、首は百尺にまで伸び、力は九頭の象をもしのぎ、身が

軽くて足が速く、見ようとしても見えない。禹はこれを童律に授けたが、活かすこと

ができなかった。鳥木由に授けたが、活かすことができなかった。庚辰に与えると、

活かすことができた。様々な妖怪の類が数千年跳梁していたのを、庚辰は無支祁に戦

わせて追い払うことができた。首を鎖でつなぎ、鼻に鈴をつけた。淮陰の亀山の麓か

ら、淮水は平和に海へと注ぐようになった。庚辰の後、皆この形をかたどる者は、淮

河の風雨を逃れることが出来た。

 『太平広記・李湯』には「武則天の永泰年間に、州の刺史李湯が魚人の話を聞いた。亀山の麓の水中に怪獣が見つかったという。形は猿のようで、白い首、雪の牙で金の爪、岸にあがると背丈は五尺あまりで、うずくまったところは猿にそっくりだった…両目を開くと、光が稲妻のように走り出た」とある。

 大禹が治水してから、歴代の小説雑記には猿の故事が多くなった。白い猿が人となったというのである。猿は天に並ぶほど寿命が長く、人の過去や未来が分かるという。巨猿は自分を巴西猴と称した。巴山の猿は怪しげな術を好み、異国の僧に化け、『金剛経』を説いたそうである。白い猿は白衣を着て杖をついていたという。このような、猿が人に化けたという故事は全て、ほぼ猴行者と似ている。猴行者、孫悟空の形は、最古の民族神話の登場人物無支祁が次第に変化したもので、脈絡ははっきりしており、理にかなっている。

 他の説では、猴行者とはインドの『ラーマーヤナ』における神猿ハヌマンであるとしており、胡適が主張している。

 『ラーマーヤナ』は紀元前3世紀から紀元2世紀の間に作られたインドの叙事詩で、この中には人類社会やアカゲザルの王と魔の世界、およびその織り成す関係が描写されている。『猴国篇』『美妙篇』には、精彩に神猴ハヌマンの超人的な本領が描写されている。今、かいつまんでいくつかをご紹介する。

  猴として生まれ、体は柔らかく、

  いつでも意のままに変化することができる。

  金剛の杖で体を叩いても、

  傷つけることはできない。

  彼の力は枯れることなく、

  空中を行くことができる。

  ハヌマンは言った。

  「広い大山シュメール(須弥山)は、

  頂は青天を突き破るようで、

  私は自由自在に何度でも巡ることができる。

  私の両足の力を使って、

  大海もかき混ぜることができる。

  ただ眼をくるりとさせれば、

  私はすぐに雲から飛び降り、

  雷のように雲から出てくる。

  私の威力は風神にも匹敵し、

  金脚鳥のように飛ぶことができる。

  一日に一億由旬も行くことができる。(一由旬は四十里)」

  風神の子供は手を使い、

  大きな山を作り上げた。

  この恐ろしい猴が吠え狂い、

  大きな山をひっくり返した。

  彼は体に光をまとい、

  燃え盛る太陽のようである。

 『ラーマーヤナ・美妙篇』において、繰り返し神猴ハヌマンが猴王のラーマの妻シータを得ようとして、羅刹たちと戦い、超人的な智慧と勇敢さを表したことが描写されている。

 十頭魔王の遊楽園に入っていったときのことを、『美妙篇』40章は書いている。

  勇敢で光り輝くハヌマンは、

  大きな山のようであり、

  地上に自分の尻尾を引きずって、

  大きく吠えて天を震わせた。

羅刹たちはこの声を聞き、皆「恐ろしくて心から驚き」、羅刹たちの恐ろしい兵器が四方八方から侵攻してきたとき、神通力を発した。

  彼は支提殿に跳び上がり、

  その高さは須弥山くらいあった。

  この無敵のハヌマンは、

  支提殿を破壊した。

  体からは光を発し、

  まるで波哩耶特羅山のようであった。

  彼は大きく吠え、

  耳が震えて聞こえなくなるほどであった。

  飛ぶ鳥が空から落ちてきて、

  彼の言葉は空中に響いた。

  この力持ちの猿は、

  この宮殿の上から、

  力任せに柱を引っこ抜いて、

  振り回した。

  彼は大きな沙羅樹を引っこ抜いて、

  力任せに空中へ放り投げた。

  彼は門のかんぬきを引っこ抜いて、

  乱暴に敵へ投げつけた。

  羅刹の脳味噌は無くなり、

  両腕や膝も無くなった。

  弓や戦車もみあたらず、

  馬や矢だけが残っていた。

 

  この猴の行動は素早く、

  矢を空から引っこ抜いた。

  戦車もきれいに押しのけて、

  彼は綺麗になった空を走り回った。

 

  彼は手を伸ばして山を掴み、

  小鹿や猛獣、樹木も一緒に掴み、

  この猴の王者ハヌマンは、

  羅刹を殺すために山を投げつけた。

 

  彼(ハヌマン)の目から、

  火の光が発した。

  火は羅刹を燃やそうとして、

  兵卒や戦車も燃やそうとした。

 

  あなたがたの目の前で、

  私は摩亨陀羅山の頂上に跳び上がり、

  一心に集中して

  大海の南岸まで飛んでゆこう。

 ハヌマンと魔女が戦ったとき、魔女はハヌマンを食べようとした。

  私(ハヌマン)はすぐに体を大きくして、

  彼らの口より大きくなった。

  彼女(魔女)は海のような大きい口を開き、

  私を一口に飲み込もうとした。

  彼女は私のことを分かっていない、

  私の変身を彼女は分かっていない。

  たった一瞬のうちに、

  私は巨大な体を小さくした。

  私は彼女の心臓をつかみ出し、

  すぐに天に向かって飛び上がった。

  「ハヌマンは戦場で、

まるで猛り狂った死に神のようだ

彼は人の命を奪ってしまう

羅刹は彼を見ると一目散に逃げ出した。」

 『ラーマーヤナ』の描写から見ると、神猴のハヌマンは猴行者、特に『西遊記』の中の孫悟空に非常に似ている。しかし『ラーマーヤナ』は二千年もの間訳本が作られず、訳本が出現したのは比較的遅くになってからである。三国時代、唐僧たちは『六度集経』の『国王本生』に描写された、「海龍が王妃を盗み、竜宮深くに住んだ」という逸話を翻訳することは出来た。国王と弥猴とは約束をして、弥猴は人々を率いて国王のために王妃を奪回しに行った。国王が放った矢で竜王は死に、王妃と会うことが出来た、というものである。しかし、この物語と『ラーマーヤナ』のハヌマンがラーマのために王妃を探しに行く物語とは似ているが、ハヌマン、ラーマといった名前は出てこないのである。

 北魏時代に訳された『雑宝蔵経』の十奢王の故事には、ラーマンラーマ太子の名があるが、しかしこの故事と『ラーマーヤナ』とは全く異なっており、内容は全て孝順で中睦まじく、争いが無く、神猴の威力や神通力が出てこない。このラーマは『ラーマーヤナ』のラーマと異なっているのである。

 『賢愚経・頂生王品』には、次のようなことが描写されている。頂生王が天下を降服させ、最後に三十三天の?利天官のもとへ上り、貝を吹いて弓を鳴らし、千二百門を開け、帝釈天と並んで座り、一緒に天の楽を聞いた。阿修羅と帝釈天とが戦ったとき、頂生王は帝釈天を助けて勝った。頂生王は天宮を独り占めしたいと思ったとたん、墜落して死んでしまった。ある人は、これは孫悟空が天宮を騒がせた故事の起源であるといっているが、こじつけの感が強い。

 インド、中央アジア、西域や敦煌の壁画の中には、確かに多くのアカゲザルの故事と、神聖な猿の形が描かれている。しかし、ハヌマン或いはラーマを描いた壁画は発見されていない。これにより、猴行者の起源は『ラーマーヤナ』中のハヌマンに求めるのには、根拠が無いのである。

 以上の二つの説以外に、混血猴の説や仏典起源説等があるが、どれも論理的ではなく、いかなる猴行者の起源に関する説、あるいは多源混血説も、強力な説得力は無い。猴行者である悟空は、民族神話の中の無支祁と密接な関係があるのだ。しかし猴行者は仏教の産物であるから、仏教文化と全く関係が無いということは不可能である。仏教文化が我が国の哲学、文学、芸術、美学などに与えた影響が深く広いことは、言うまでもない。これらのことから、私は、猴行者の形は、淮水の神猿を主体として、また仏教経典や仏教芸術に描かれたアカゲザルの故事の影響を受けて、融合して作り上げられたものだと考えている。ある程度は混血猿であると言えるが、取経図における猴行者と『西遊記』における孫悟空が表す機知、勇敢さ、正直さ、忠誠、恐ろしいものを恐れない心、臨機応変などの精神と、質朴で素直な風格は、中国民族の伝統的な美徳を表現している。これによって、この芸術の生命力は、千百年もの後も依然として人々を照らし続けているのである。

 玄奘取経図は独立した画面ではなく、観音変や普賢変に挿入されたものであるが、これは玄奘と観音菩薩の密接不可分の特殊な関係を充分に表現している。

 玄奘が蜀にいるとき、『般若心経』真伝を手に入れたことがあり、経の中には観世音菩薩が苦難を救うという徳行を称えて「自在菩薩が般若波羅蜜多を行ったとき、五蘊昏空が一切の苦厄を度すのを照らし見た」という文章がある。これによって、玄奘は苦難に遭遇したとき、観音菩薩を拝み、『般若心経』を唱えたのである。

 玄奘と胡人は瓜州から密かに葫蘆河を渡り、玉門関を過ぎた後、ゴビ砂漠で野宿した。深夜、「胡人は刀を持って起き上がり、法師にゆっくりと近づいて、十歩歩かないうちにまた振り返った。その意図が分からず、裏切りの心があるのではないかと思ったら、観音菩薩に読経しているのであった」。

 莫賀延砂漠に入ってからは、八百里の大ゴビで、鳥も飛ばず、獣も見えず、水草もなく、人骨が道標となっているのが見えるだけであった。「沙河に至るまでの間、たくさんの悪鬼、形が異常なものに遭遇し、周りを取り囲まれた」そうであり、玄奘は周りを見ても誰もいないのを見ると、一心に観音菩薩に祈り、『般若心経』を唱えた。唐代には『大慈恩寺三蔵法師伝』以外にも、『大唐新語』、『独異志』などの書物があり、多くは玄奘がお経を求めて西域に行ったとき、観音菩薩の保護を受けたことが書かれている。蔵経洞出土文献の、P.2714『讃梵本多心経』には、「こうして三蔵は東の土地を離れて西の天竺に行こうとした…朝には様々な獣に出会い、夜には悪鬼に遭遇し、あるものは口から火を吹き、あるものは頭から煙を出し、あるときは前の顔は笑い、後ろの顔では歌を吟じ、自在に跳梁し、いろいろに変化した。彼らの髪の毛は真っ赤で、体は真っ青だった。三蔵はそれが計り知れないのを見て、一心にお経を唱えた。題目を聞くと、羅刹は降服し、真言を唱えると鬼神は退散した。そこで賞讃して言った。‘般若の題目観自在、聖力威神は比べるものも無く、危難の心で祈るとき、邪悪な者たちは自然と退散していく’…当時の三蔵のお経による力は、如来が聖なる歌を歌うようであった。」

 S.2464『唐梵番飛封字音般若波羅蜜多心経』序には、観音菩薩の化身が梵本を伝授したことが書かれている。『多心経』には、きわめて詳しく書かれている。「梵本般若多心経は、唐の三蔵の訳したものである。三蔵は天竺に行こうとこころざし、益州を越えて、空恵寺に宿ったときに、一人の病気の僧に会った。止まって話を聞くと、その僧は言った。‘法のために自分を忘れ、甚だしくは望みをいだいた。そうしたら五竺をはるばる辿り、十万里の道のりを、流沙を歩き深い弱水を渡り、異国の風が吹くところは、草が動いて寂しくさせ、山鬼が吠えるとき、荒涼とした落ち葉を見た。朝は雪の峰を歩き、夜には氷の壁に宿った。木には猿がぶらさがり、多くの魑魅魍魎がおり、峰峰はかさなって、白雲は雪を降らせた。道のりは困難が多く、どのように行ったものか?私には三世の諸仏心に法門を必要としている。あなたがもし受けてくれるならば、一緒に行きたい。’こうして、暁まで法師とかたらい、法師の馬がいなくなってしまった。三蔵は袋をたたんで、ゆっくりと唐の国境を離れた。あるいは苦難を、あるいは飢えを経験しても、お経を四十九回唱え、道に迷ったら人に化して導き、食べたいと思ったら珍しい食べ物を与えてくれたが、これは皆誠意をこめて祈ったためである。インドのマガダ国のナーランダで、お経を選んでいるときに、あのときの僧侶が忽然と現れて言った。‘遠い艱難辛苦を乗り越えて、ここで会えたのが嬉しい。私は昔中国で三世諸仏心に法門を必要として、ここを通り抜けた。守られて道行き、お経を手に入れて早帰ろうとし、心願に満足であろう。私は観音菩薩である。’空に向かってこう言うと、妙なる吉祥が現れた。これより、さらに信心深くなった。」

上述した資料は、玄奘は観音の崇拝者であることを説明している。道々で苦難に出会ったことも、玄奘がお経を手に入れる場面が多く観音変に描かれていることを説明しているのであって、観音菩薩は玄奘の心中の保護神であることを説明している。

水月観音は唐代に出現し、絵画史上「周ム妙創水月之体」と記載された。ここから、唐代の仏教壁画四大派首領の一人、周ムがこの題材の創始者であったことが分かる。絵は、観音が霊妙な岩山に座り、前には聖水の入った瓶と柳の枝があり、後ろには竹がはえ、池の中には緑の漣があり、蓮の花が咲いている、というものである。天空では月に彩雲がかかり、幽玄で静謐な境地である。白居易は「静かな緑の波の上、白い光のなかに、その情景を見れば、万物はみな空である」という詩を作ったが、ここにおける空とは、仏教の一切皆空を指し、また審美的に見たときに生まれる思想上の浄化作用も指している。

このような景色に似ているものを、玄奘は『大唐西域記』に書いている。「フダラク山は、危険な道で、岩の形が珍しく、山頂には池があって、水は鏡のようであり、大河に注いでいる。山を十二回も回って流れて、南の海に入る。池の側には石天宮があり、観自在菩薩が周遊している。菩薩に会いたいと願う者は、命を顧みず、水を越えて山に登り、危険を忘れねばならない。」これは玄奘が、インド南海の観音がすむ場所の風景を記したもので、四方を水や石天宮などが取り巻いており、水月観音の環境と非常によく似ている。玄奘の記載は、水月観音図の構想にある程度の影響があるのだろう。

東千仏洞の水月観音図の玄奘は、挿話ではなく、主題として表現されている。玄奘と猴行者の一行の人馬は、激流が行く手を阻んでいる険しい道におり、大梵天王と護衛たちが空を飛んでいる。珞珈山の上の観音は玄奘が西にお経を取りに行く保護神であるが、ゆったりと座っている。これにより、この水月観音図は実際、『詩話』を脚本としているのであり、観音を主体とした完璧な玄奘取経図とは相を異にしていることが分かる。

普賢変に描かれたものも、『詩話』第十の最後の詩「ここにはもう一方の仙人がおり、あなたを天竺に送り出してくれる。女王の姓名を知りたければ、文殊と普賢である。」すなわち文殊と普賢は女王に姿を変え、玄奘のことを考え、また保護してくれ、あわせて白馬を一頭贈ってくれて、お経を積んで東に帰してくれたのである。

上述の資料からは、玄奘取経図画観音経変と普賢変に現れているのは偶然ではないことが充分に分かる。

玄奘取経図について、私は次のように考察した。

一 玄奘が西域に行ってお経を入手した故事は、玄奘が生きている時にすでに流行しており、北宋の景佑三年(1036年)欧陽脩と友人とが揚州寿寧寺に遊んだときの手記にこうある。「寺は広くて荘厳で、壁画は優しく妙なるものだ。老僧に尋ねると、こう言った。周世宗が揚州に入って行宮とし、ことごとく汚してしまった。しかし経蔵院の玄奘取経図だけが残り、絶筆とされた。そう言って長くため息をついた。」惜しいことに寺は既に壊れてしまい、壁画は残っていない。しかし幸いなことに西楡林窟や東千仏洞から、西夏時代の玄奘取経図が発見され、絶世の妙品とされた。これらの取経図は艱難辛苦の西域行きを表しているだけでなく、勝利して東に帰ったことや、17年の辛い道のりも表している。これは中国・インド文化交流の歴史や、『西遊記』が出来上がる前の主要な人物の形が誕生して完成していく過程を研究する上で、得難い資料である。

 二 玄奘取経図が安西楡林窟に現れたのには、歴史的背景がある。貞観三年(629年)、玄奘と同伴者は朝廷の命令に背き、秦州に潜入して、翌日には蘭州に向かった。当時はまさに長安に官馬を送った使者が涼州に帰るときであり、それに従って涼州に行き、商人たちに講釈をした。異国人の商人たちは非常に歓迎し、援助してくれた。慧威法師の助けのもとで、弟子慧琳と道整とが派遣され、密かに西へと送ってくれた。昼は潜んで夜に動き、やっと瓜州へと辿りついた。当時西域に行く道には三路あり、玄奘は北道を取った。瓜州から「北に五十余里行くと、大きな河があり、水面は広く水下は狭く、波は激しく、深くて渡ることができなかった。上流には玉門関があり、必ずこれを通らねばならず、これは西域へ出る喉であった。関の外の西北にはまた五峰があり、これは仰ぎ見るほど高かった。百里ずつ進むと、その途中には水も草も無い。五峰の外はタクラマカンで、伊吾の国境である。」玄奘は伊吾から焉耆へと転じ、北道を進んだ。

 玄奘が関門を出るのは非常に難しかった。独孤達が朝廷の命令に背いて玄奘を行かせ、通達を廃棄して、玄奘を守って関門を出させたのは、死にも値するような行為であった。この故事は必然的に当地の人々の間に流布した。蔵経洞から出土した玄奘西遊取経の事跡に関係する写本が、これを証明している。南宋時代(敦煌は、西夏時代である)に、詩話が流伝した。玄奘取経詩話は唐代の変文形式であり、玄奘取経の困難を描いた故事は、必然的にその故事の故郷である瓜州の人たちが愛するところとなった。絵師たちが流伝していた故事を壁面に描いたのも当然であり、現実の歴史的人物と想像上の神霊世界とが結合した画面は、西夏時代の大きな特色を作り上げた。

 三 玄奘取経の歴史的故事について。『詩話』が次第に神話故事へと変遷していくのに従って、故事も次第に奇想天外なものに変わっていった。『詩話』の出自は変文であり、その文体と敦煌の変文とが同じことから、玄奘取経図もまた詩話に依拠していると考える人もあった。登場人物について、「一行は六人」とあるとはいえ、実際に描かれているのは玄奘と猴行者の二人である。玄奘が主体であり、彼の若さ、英俊、剛毅、敬虔、忠誠やしばしば拝んでいるという高僧の姿が重ねて描かれている。猴行者は玄奘の弟子であり、また侍従である。取経の道のりにおいては彼が主要な人物となった。玄奘は彼を「大明仙」と呼んで、神通力で悪魔や怪物を降服させ、仏法を守ることを望んだ。このとき、猴行者の形はまだ模索の途中であった。ある人は猿に似せ、人の智慧と猴の機敏さ、鋭敏さを表現した。あるものは猿の顔で、人の慎重さと霊性を備えさせ、特に火のような金色の目や、考えを見て取ることなど、強い威力を含ませて、玄奘に対する無限の忠誠を表現した。またあるものは純粋に猿の格好をしており、大きな目に張った口で、叫んでいるようであり、野生が未だ馴らされず、猴行者の機知や智慧はまだ表現されていない。三種類の猴の様相では、第一、第二のものが素晴らしい。特に楡林窟第3窟のお経を担いだ猴行者と、東千仏洞第2窟の棒を持って待機しているものは、猴・人・神が融合して一体となっている。特に鋭敏な眼光、手を額の前に掲げて日よけのようにしているところ、遠くに注意して見ている様子、俊敏な歩き、金環錫杖の神秘的な変化は、どれも元代の雑劇や小説(『西遊記』)における主要な人物孫悟空の基礎を作った。

 最後に、以下のようにまとめることができる。『大唐三蔵取経詩話』は、玄奘の『大唐西域記』を依拠として書かれた彦?の『大慈恩寺三蔵法師伝』や、西域取経伝説を書き上げた変文が、芸術的想像力を発揮して神魔小説の方向に大きく一歩を踏み出したものである。

 玄奘取経図はまた、『詩話』を青本として出来上がった。壁画が作り上げた芸術は恐らく実際の具体的な形であり、主に典型的な芸術形象によって人を感動させる。取経図の中の玄奘と猴行者は『詩話』によって想像された典型的な形であり、取経の途中の艱難辛苦や、それを乗り越える精神を表現している。取経図は、敦煌の芸術における巨大な歴史の交響曲の挿入曲でしかないが、そこに具わった高度な歴史的価値と芸術的価値は、中国・インド文化交流史において、深くて厚い友情を含んでいるのである。


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『玄奘取経図研究』

1990 敦煌研究院院長 段文傑 
       2001.6翻訳 荒木雪葉