〜大谷探検隊も訪れた孫悟空の故郷〜


                                甘粛省安西県博物館副館長 李宏偉

日本では、ほとんど詳細が知られていない甘粛省安西県「東千仏洞」は、別名を「接引寺」ともいう。敦煌・莫高窟から東へ148km、安西・楡林窟から東へ75qの地点に位置する。洞窟は、長子山・北麓の涸れた峡谷の両岸に開鑿(かいさく)されており、東岸9窟、西岸14窟の計23窟が現存している。壁画や塑像が残っている窟の数は、西夏5窟、元1窟、清3窟で、壁画総面積486u、彩色塑像56となっている

                 東千仏洞


明治44(1911)年9月27日、大谷探検隊の吉川小一郎氏が記した日記には、「本日は『布隆吉爾』の千仏洞を訪はんとし、九時五十分橋子を発す。

       吉川小一郎師が明治44年9月27日に出発した安西県橋子郷


      橋子・清代の道徳楼           清代の貯水池

 洞は東南約七十里に在り。草原を経、石礫地を東南に進み、南山より北西に流るる河岸を渡りて達す。(中略)重病の道士在り」と当時、修道者が洞窟にいたことを記録し、
また訪問の事実を裏付けるように、第2窟の入口左壁には「明治四十四年九月二十七日 大日本京都 吉川小一郎」と鉛筆でサインが記されている。当時、窟内は焚き火などの煤で壁画が隠されていたようで、氏は東千仏洞を評価していなかったが、近年煤を洗い落とし、調査を行うことによって壁画の全貌が分かってきた。

創建は西夏時代(1036〜1226)で、西夏中期に入ると経済の発展により、仏事・法要が盛んとなった。東千仏洞も一時は政治、軍事、文化の中心として栄えていた。これが、安西楡林窟と東千仏洞の西夏仏教芸術が、敦煌莫高窟を凌ぐと言われる要因である。東千仏洞は、1996年11月20日、中国国家重要文化財に指定された。

             東千仏洞第7窟

窟内には、修業窟、及び僧侶の墓穴もあり、禅が西夏時代の宗教活動の中で重要視されていたことを物語っている。この地が、禅僧にとって理想の修練の場となっていた事がうかがわれる。

東千仏洞は殆どが「仏窟」であり、一部は「影窟」と呼ばれるものである。その影窟の代表と言われるのが、第4窟である。窟の形及び配置は仏窟と似ているが、正面壁には高僧像が描かれており、舎利塔によく使われているモチーフである。このような洞窟が、高僧を記念するために建造された「影窟」である。高僧の西夏時代における社会的地位は非常に高く、高僧を祭るのは西夏社会の習慣として普及していた。

壁画の主題としては、主に観音曼荼羅、文殊変、普賢変、浄土変、薬師浄土曼荼羅、水月観音、供養菩薩、八臂観音、十一面観音、緑度母、金剛、力士、接引仏、舞伎等がある。中心柱の背面には涅槃変を描き、窟室の後壁には説法図を描いている。中心柱の左右両側には救苦観音、壇城図、十一面観音等異なる絵柄が描かれている。

 第2窟、5窟、7窟は涅槃変と説法図であり、西夏時代の大型の傑作とされ、釈迦の成道と寂滅が主なテーマとなっている。壁画は、第2窟の涅槃変が謹厳できめ細やかであるのに対して、第5窟の説法図は自由奔放なタッチで描かれている。第7窟の涅槃図は色彩が非常に色鮮やかである。大型の涅槃変は、莫高窟や安西・楡林窟には見られない傑作であり、西夏仏教芸術が過去の常識を打破し、新たな段階へとステップアップしたことを表している。
 水月観音図も、東千仏洞・西夏壁画を代表する傑作であり、中国仏教三十三観音の一つに数えられている。
   第2窟・左壁の玄奘取経図(左に孫悟空?)         水月観音



また、この水月観音は、当初仏経には登場しておらず、中唐の著名な画家・周ムによって創作されたものである。その後晩唐以降、次第に流行し、仏教芸術の重要な題材の一つに数えられるようになった。

東千仏洞にある二幅の水月観音図には、玄奘が経典を受け取る場面が描かれ、隣に孫悟空のような猿面の従者がおり、水月観音の穏やかで且つ厳かな姿と、玄奘の敬虔な礼拝が、動と静の鮮明な対比を醸し出している。「玄奘取経説話」(玄奘が経典を授かる)図が、安西・楡林窟と東千仏洞に集中している歴史的経過は、

@西暦629年(唐貞観3年)
 27歳の玄奘は、朝廷の禁令に背き、仏法の真諦を
求めて命がけの西遊を決断。

A玄奘は潜行の後、瓜州(現・安西)に辿り着いた(『大慈恩寺三蔵法師伝』)。
 玄奘は、瓜州で1ヶ月余り読経説法を行った後、同地で案内者(後にこの人物が孫悟空のモデルとなったと考えられている)と馬を手配し、西方へ再出発した。

B玄奘が死罪をかえりみず、険しく遥かな西行を成し遂げたという史実が広く伝えられ、西夏の画家達は、この史実と水月観音を融合した「水月観音壁画」を創作した。

 1990年、敦煌国際学術討論会で、著名な敦煌学者である段文傑先生(当時敦煌研究院院長)が発表された「新発見玄奘取経図討論」において、「安西・楡林窟と、東千仏洞の6幅の【玄奘取経説話】(玄奘が経典を授かる)図の発見は、極めて貴重なものであり、その後の仏教思想、中印(中国とインド)の文化交流だけでなく、更に、明代に『西遊記』が出版された時に、格好のイメージ資料となった」と記している。

東千仏洞の壁画は唐、宋時代の密教画像を継承しただけではなく、蔵伝仏教(蔵とはチベットを指す)と密接な関係を持ちながら中原、チベット、西域、インド等の各流派を巻き込み発展を遂げたのである。また、東千仏洞における西夏仏教芸術の発展の背景には、瓜州(安西)地区にいた無数の画師達の敬虔な心が、多大な貢献を果たしたことを忘れてはならない。

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注 「東千仏洞初公開展」は7平成13年7月5日から17日まで福岡アジア美術館で開催されました。

敦煌・東千仏洞の概要